紙とペン

全ては個人の所感による

未来の未来は今にある

今朝起きて一番に、「久しぶりなあ、誕生日」と思ったが、当たり前である。

 

26歳になった。21のときより、23、24のときより、「年齢」というものに馴染みができてきた気がする。


青春というものは回顧のなかにあると感じたことがある。時は過ぎてから時代に名前が付けられ、名付いたときにはすでに過去になっている、そういうものだと。

だから、すでにその時間を終えたおとなが10代を「青春」と呼ぶのと同じように今まさにその時間を生きている10代20代の人が、自分の現在を「青春」と呼ぶことに違和感を持ち続けている。そしてやっぱり、いま「おとな」と呼ばれる私は生きている現在の自分を「おとな」と呼べない。せいぜい「成り上がりのこども」か「成長期を終えたヒト科」だ。

 

ただ年齢というものには多少馴染みができてきたように思う。

 

わたしはまだ到底自分を「おとな」とは呼べない。なし得たこともそう多くはないし、見通しのつかない将来にしょっちゅう気落ちしてメソメソしている。けれど、学び、知識を得ることは、わたしを大きくしてくれた。21のときより、23、24のときより、わたしはいろんなことを知ることができた。過去のわたしは今のわたしをおとなと呼んでくれるだろうか。予想よりも随分歩みが遅くて、なんだ、まだそんなもんかと呆れるかもしれないな。その可能性の方が大きい。

でも、まあ、将来振り返るわたしが「大きくなれたな」と思える年を重ねていきたいと思う。