紙とペン

全ては個人の所感による

鑑賞備忘録

フォロワーの展示会にお邪魔したので、その備忘録です。

 

言葉の稚拙さを思い知った……

 

生の作品に触れるということが映画美術文学音楽にかかわらずめっきりなくなっていて、最初会場に踏み入ったときに「ワア」としか言葉と感覚がないことにまず絶望した。

そこから自分の感性が目を覚ますまでに長い時間がかかった。

自分の感覚を表現する言葉もどっかにいっちゃったみたいで、感想を述べるにも自分の目に見える作品を伝えるのにも、いろんなところから言葉を借りて説明することになってしまって本当に申し訳なかったし恥ずかしかった。

でも、すっかり枯れた泉に水の湿りを得た感覚は残ったので、それらをきちんと言葉にしておきたく綴る。

 

写真から順に巡らせてもらった。

これ全部にそうなんだけどまず「レム、これ、すき」みたいなポニョかベイビーみたいな言葉で感想を伝えてばかりで作者さんたち本当にすまんかった。まず好きかそうでないかで判別しがち……赤ちゃん卒業したい。

写真にまつわる「イメージ」だとか「カメラアイ」「視線」は比較的距離が近いところにあるものだったので、見ているうちにわくわくするものがあった。

日常の延長線上のようで、少し窃視めいたニュアンス、フェチズムがのぞき見えるような、女の子たちのリラックスした姿を収めたものたち。そこに緊張感はなくて、まるで自分の目線で見たような親しさもある。

基本は人物に視線が向けられているけど、わずかな背景で見える都会と田舎の光の違いがやはり全体の色の固さが違うな、と思った。ひとつ、カルピスウォーターのボトルがやけに気に入った。

 

次も写真を先に見た。こちらは海と空が画面の多くを占めていて、人は色濃い影で顔は認識できないし、アイデンティティのないほとんど「人間」のシルエットだけで、うつくしい夕暮れの色が気に入った。

海の表情を見るのはすきだけど、入るのにはわりと怖がるぼく。海に対する畏怖と一緒に湧く「好きだな」という感情が、海の先の水平線と空ありきですきなんだなと改めて思う。

聞けばもう少し潮の引いた状態を予定していたらしいけど、ぼくはたっぷりとした水の厚みとさざ波と、眩しすぎない夕暮れの暗さと明るさがすきだった。一枚一枚が全部違う表情をしていて、そういう予定調和ではない、制御しきれない雄大さも感じられて良かった。

ほとんど景色の写真ながら、やっぱり人ひとりの影があるだけで情景を引き締める物語性を感じられた。

 

フォロワーの作品たちは、先に告知でもらった絵がすごく鮮烈で、最初はそれ見たさに電車に乗った。でも実際会ってみると、筋の通った作家性がありながらひとつひとつに風合いというか温度の違いを感じられてそれが楽しかった。やはり写真(画像)では汲めない筆致を間近に見れて行ってよかった。

霞がかった色合いや全体の凹凸など、視覚以外の感覚が沸き立つようで楽しい楽しい。道具や制作方法を話して伝えてもらえる、制作者とこれほど距離の近い美術鑑賞がまず初めてだったのでそういう点でも楽しかった。これ以降は鑑賞側に立つのみならず、制作の視点から見ることがもっと身近になりそう。貴重な経験をありがとう。

 

そして、やっぱり別分野から言葉を借りてしまうんだけど、写真だと映画と似て直接的に「イメージ」を観客(鑑賞者)に与えるもので、概念的な部分に踏み込むには観客の主体性を要求する部分があると思っている。そういう意味で基本的には受動的で、かつ能動的な余地が広い部分が大きいとも考える。

 

フォロワーの作品は、第一印象ではその受動と能動の判断……作品に対する自分の立ち位置の判断をつけかねて最初は足を踏み込みあぐねた。語るものがあって、耳を傾ければいいのか、抽象的な輪郭に自我を踏み込ませればいいのか。制作方法を聞いて、なるほど「イメージ」と「イマージュ」の狭間に見る者をさ迷わせるな、と。

美術鑑賞には、背後に透けて存在する物語るものを、受け止めてもいいし、踏み込んで解釈してもいい。そういう自由な主体性があるな、と今改めて思う。

筆致による表情の違い、画材?による温度の違い、どれもが柔らかくもあり芯もあり、けれど曖昧ではなく確固として存在する、そういう触れられる幻感が心地よかった。

 

フォロワーと語ったときキアロスタミを引き合いにだしてしまったんだが、今それを改めて弁明すると、素人俳優に台本を与えた疑似的なドキュメンタリーを作り続けたキアロスタミにはドキュメンタリージャンルの再考を促す面白さがある。

ドキュメンタリーはノンフィクション映像ながら、人の手と眼を介し編集され、スクリーン上に収められる人工性があって、ある意味「ドキュメンタリー」の定義と映画の本質が矛盾する部分がある。

キアロスタミはその点ドキュメンタリーのそういう拭いきれない人工性を、なんていうんだろう、開き直って、矛盾をひっくるめて存分に「映画」にし続けたという感じで。写真や他の媒体の時間と空間を切り取った「イメージ」を「イマージュ(想像する概念)」として再提示する、そういう横断性というか、変換しきらず、両方にまたがりながら別のものを考えさせる「場」になる「絵」だなと。伝えにくい……

 

あとは絵は完全に二次元ではなくて、立体的な部分をもって三次元に食い込む、あるいは触覚や他の語感に訴える部分で「人」にかかわってくるそういうものでもあるんだなと感じた。知ってはいたけど、改めてわかった。

 

総じて、楽しかったし、行ってよかった!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!てところです。一人暮らしで余裕のある生活になったら絵を買いたいという夢ができました。